MARC BORAN

BIOGRAPHY


1947年9月30日
マーク・ボラン、ロンドンに生まれる。本名 Mark Feld (マーク・フェルド)

1956年
9歳の誕生日にギターを買ってもらい、ロックスターを夢見る。

1961年
マークは初めてのバンド「スージー&ザ・フラフープス」の後モッズのファッション・モデルとして、雑誌などの仕事をしていた。


1964年
マークはパリへ出かけ、
パリ郊外で魔法使いに出会う。5ヶ月間一緒に暮らし、あらゆる魔術、呪術、錬金術をマスターした。

12月には初めてスタジオでレコーディングする。

1965年
プロデューサーのジム・エコノメディの助けで、デッカ・レコードと契約する。
 
「ザ・ウィザード」の初期サンプルが出来上がったとき、そこに書かれているマークの名前がデッカによってマーク・ボーランドに変えられていた。

自分の将来を勝手に決められたことに納得がいかないマークは、デッカに名前をマーク・ボランとさせた 。

ボブ・ディランの(Bo)b Dy(lan)からとったものと言われている。

11月19日 1stシングル「ザ・ウィザード」でデビュー 。
パリの魔法使いへの歌とされている。

人気番組「レディ・ステディ・ゴー」でテレビ初出演をはたすが、バンドの演奏ミスと器材の故障で失敗に終わる 。

1966年
6月3日 マークは、2ndシングル、「The Third Degree/San Francisco Poet」をリリース。

夏、マークは、当時、ヤードバーズのマネージメントを手掛けていたサイモン・ネピア=ベルに電話で自らのマネージメントを依頼。

デモテープを送れとの指示を無視して、約10分後にはサイモンの前に現れ、45分に渡ってギター1本の弾き語りを聴かせた。
サイモンは、マークのズバ抜けた才能を認め、マネージメントを引き受ける。
 
11月25日 サイモンのプロデュースのもと、マークは3rdシングル「Hippy Gumbo/Misfit」を、EMI傘下のパーロフォンからリリース。

当時、自主FM局「ラジオ・ロンドン」のDJであった、ジョン・ピール(後のBBCの人気DJ)は、マークから直接送られてきたこのシングルが気に入り、自らの番組でかけまくった。
しかし、セールス的には、泣かず飛ばずの成果であった。

1967年
6月、3rdシングル「ヒッピー・ガンボ」をリリース 。

再び「レディ・ステディ・ゴー」に出演し、演奏も前回よりはうまくいったがジミ・ヘンドリクスのイギリスでのテレビ初出演のせいで、影が薄かった。
 
ソロでのデビューに失敗したマークは、サイモンがマネージャーをしていたバンドであるジョンズ・チルドレンにギタリストとコンポーザーとして加入する 。

シングル「デスデモーナ」をリリースする 。

BBCが歌詞の内容に問題があるとして放送禁止としたにもかかわらず、人気がありチャート一位となる 。

ジョンズ・チルドレンは、ステージの上を走りまわり、時には観衆の中に飛び込むなどの過激なギグを精力的に行う。
 
ドイツ公演では、観衆が暴動を起こし、警察の装甲車までが出動する騒ぎになった 。

マークは6ヶ月もしないうちにジョンズ・チルドレンを脱退 。

ロックバンドを結成するために、ミュージシャン募集の広告を掲載 。

18歳のスティーブ・ターナーというドラマーをメンバーとして迎え、彼にスティーブ・パーグリン・トゥックと名前を改めさせる。

「ペリグリン・トゥック」というのは、トールキンの長編小説「指輪物語」の登場人物からとられた名である 。

28歳のベンというベーシストを迎え、ティラノザウルス・レックスを結成 。

結成後すぐに、コベント・ガーデンに行ってライブを行うが、リハーサル不足もあって失敗する 。

その後、すぐにバンドは解散する 。

トラック・レコードがジョンズ・チルドレン時代より使っていたエレキギターとアンプを取り上げる 。

お金に困り、生活費を得るためにスティーブはドラムセットを売ってしまい、手元には1セットのボンゴしかなかった 。

ティラノザウルス・レックスはアコースティックギターとボンゴだけの2人編成のバンドで再出発した 。

マークの良き理解者であるラジオDJのジョン・ピールが、違法ラジオ局でティラノザウルス・レックスの音楽を放送する 。

ティラノザウルス・レックスの新鮮なサウンドがアンダーグラウンドで人気を集め、着々とファンを獲得する 。

プロデューサーのジョー・ボイドに売り込んでデモ・テープを制作するが、仕上がりに不満があり、エンジニアのトニー・ヴィスコンティをプロデューサーとして迎える 。

リーガル・ソノフォーンと契約をおこなう 。

1968年
4月 シングル「デボラ」でデビュー 。
「デボラ」がヒットチャートで34位まであがる。
 
7月 アルバム「マイ・ピープル・ワー・フェアー・・・・・」をリリース 。

8月 2ndシングル「ワン・インチ・ロック」をリリース 。

「ワン・インチ・ロック」がヒットチャート28位になる。
 
10月 2ndアルバム「プロフェッツ・シアーズ・アンド・ゼイジズ」をリリース。

この頃から年上の女性、ジューン・チャイルドと暮らすようになる 。

1969年
1月 3rdシングル「ピューター・スーター」をリリース 。

1月 ジューンと結婚する 。

5月 3rdアルバム「ユニコーン」をリリース。
このアルバムよりベースを導入し、エレクトリックサウンドへと移行していく 。

6月4thシングル「キング・オブ・ザ・ランブリング・スパイアーズ」をリリース。

初めてアメリカでツアーを行うが失敗 。

スティーブがアメリカでドラッグ浸りになり、このツアーを最後に脱退。

ロンドンに戻った後、画家でタブラ奏者のミッキー・フィンと出会い、ティラノザウルス・レックスの再建を開始する 。

エリック・クラプトンの家に滞在し、本格的なギター奏法の伝授を受ける。

1970年
1月 5thシングル「バイ・ザ・ライト・オフ・ザ・マジカル・ムーン」をリリース。
 
3月4thアルバム「ベアード・オブ・スターズ」をリリース 。
この頃から、エレクトリック・ロック色が濃くなる。

デヴィット・ボウイと出会い、彼のレコーディングに参加 。

10月 フライ・レーベルに移籍し、グループ名をT.レックスと改める。

10月 シングル「ライド・ア・ホワイト・スワン」をリリース 。

12月 アルバム「T・レックス」をリリース。

1971年
1月 「ライド・ア・ホワイト・スワン」がチャート2位まで上昇し、シルバー・ディスクに輝く。

ベースにスティーブ・カーリー、ドラムにビル・リジェンドを迎える。

2月 デビュー・ライブを行う。
この時、マークはエレキと金ラメのスーツという姿で登場した。

エレクトリック・バンドへの変革を遂げる。

2月 シングル「ホット・ラブ」をリリース。
「ホット・ラブ」が6週間もの間、チャート1位に輝く。
 
7月 シングル「ゲット・イット・オン」をリリース 。
「ゲット・イット・オン」も続いてチャート1位に輝く。

9月 アルバム「電気の武者」をリリース。
この頃に、ブギーを基調としたギターリフに変則的なコード進行・異様なストリングスアレンジとコーラスワークが組み合わさった、ボラン・ブギーといわれるT.レックスサウンドが完成。

「電気の武者」がアルバムチャートで7週連続1位となる
人気がアメリカにも飛び火し、「ゲット・イット・オン」が大ヒットする。

11月 シングル「ジープ・スター」をリリース。

1972年
1月 自己レーベル、T.レックス・カンパニーを設立。

1月 シングル「テレグラム・サム」をリリース。

5月 シングル「メタル・グゥルー」をリリース。

7月 アルバム「ザ・スライダー」をリリース。

9月 シングル「チルドレン・オブ・ザ・リボリューション」をリリース。

リンゴ・スターと共に映画「ボーン・トゥ・ブギー」を制作。

11月25日 初来日。
Tレクスタシー」旋風が巻き起こっていた。

11月28日 日本武道館で初めての日本公演。

11月29日 名古屋 愛知県立体育館出の公演。

12月1日  大阪府立体育館での公演。

12月3日  突如、東京溜池の東芝レコードのスタジオで、レコーディング。
録音されたのは、「20th Century Boy」(シングル曲)「Shock Rock」「Electric Slim」(「タンクス」に収録)の3曲。

また、スタジオを訪れた関係者に酒をふるまい、合計ワイン20本、ビール12ダースを飲みながらのレコーディングだったらしい。

12月4日  日本武道館での公演。
 
12月 シングル「イージー・アクション」をリリース 。


1973年
3月 シングル「20センチュリ・ボーイ」をリリース。

3月 アルバム「タンクス」をリリース。

6月 シングル「ザ・グルーヴァー」をリリース。

人気にかげりが見え始め、マスコミがこぞってT.レックス・ブームの終焉を告げる。

マークがドラッグとアルコールの乱用によるパラノイアの兆候をみせる。

9月 ヒット・シングルを収録した「Tレックス・グレイト・ヒッツ」リリース。
しかし、チャートは32位止まり。

T.レックス人気の激しい凋落ぶりがうかがえる。

10月 2度目の来日ツアーを行うが、前回のような熱気はなかった。

11月 シングル「トラック・オン」をリリース。

長年のパートナーであるプロデューサーのトニー・ヴィスコンティと別れる 。

アメリカツアー中に黒人女性シンガーのグロリア・ジョーンズと知り合う。

1974年
2月 アルバム「スイング・アロイと朝焼けの仮面ライダー」をリリース。

2月 シングル「ティーンエイジ・ドリーム」をリリース。
クレジットが「マーク・ボラン&Tレックス」に変わる。最高位13位。

再び、新しい世界を築くために模索を続ける。

7月 シングル「ライト・オブ・ラブ」をリリース。

11月 シングル「ジップ・ガン・ブギー」をリリース。

1975年
2月 アルバム「ボランズ・ジップガン」をリリース。
ミッキー・フィンが脱退。

6月 シングル「ニューヨークの貴婦人」をリリース。

6月 テレビ番組「トゥデイ」のインタビュワーを務める。
音楽番組「スーパーソニック」にレギュラー出演。

9月 シングル「夢みる夜の魔女」をリリース。

9月 グロリア・ジョーンズとの間に男の子、ローラン・シーモアが誕生。

1976年
1月 アルバム「フューチャリスティック・ドラゴン」をリリース。

2月 シングル「ロンドン・ボーイズ」をリリース。

6月 シングル「アイ・ラヴ・トゥ・ブギー」をリリース。
トップ20にランクインする。

9月 シングル「レーザー・ラブ」をリリース。

11月 新メンバーを編成し、ツアーを行う。

1977年
1月 シングル「逢ったとたんに一目惚れ」をリリース。
グロリアとのデュエット曲であった。

3月 アルバム「地下世界のダンディ」をリリース。
 
3月 シングル「心はいつもロックン・ロール」をリリース。

5月 シングル「地下世界のダンディ」をリリース。

8月 シングル「セレブレイト・サマー」をリリース。

8月 レコード・ミラーでコラム連載を始める。
そこで「ニュー・シングルの「セレブレイト・サマー」が死ぬ前の最後のシングルになるであろう」と書く。
 
8月24日 グラナダTVで、水曜日夕方の6週間のシリーズ番組「MARC」の司会を担当。

ジャム、ジェネレーションX、ブームタウン・ラッツなどの若いバンドを積極的に応援した。

番組では、デビッド・ボウイとマークの共演も実現。
 
9月 16日 マークとグロリア・ジョーンズは、ロンドンの「モートンズ・クラブ」で明け方まで過ごした。

午前5時、グロリアが運転していた車が自宅近くで運転ミスにより大木に衝突。

助手席に乗っていたマークだけが死亡。

自ら「30歳までは生きられないだろう。」と生前予告していた通り、30歳になる約2週間前の出来事であった。





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