JIM MORRISON
BIOGRAPHY
1943年12月8日 | フロリダ州メルボルンにてジェイムス・ダグラス・モリスン誕生。 |
クリアウォーターの父方の実家で3年間過ごす。父親のスティーブは軍人の為、不在が続く。 終戦後ワシントンDCに半年居ただけで、アルバカーキに引っ越す。妹のアンも生まれていた。ジム4歳。 この頃、ジムは『人生の中でもっとも重要な一瞬だった』と語る事件に遭遇する。 それは、道に横倒しになった一台のトラック。荷台から投げ出され、瀕死の重傷のプエ・ブロ・インディアン達。 ジムは泣き出した。『助けてあげなくちゃ』と泣き叫ぶジミーに父は『みんな夢なんだよ』となだめる。 父親の車が交差点を離れたとき、一人のインディアンが死に、その男の魂が自分の体に乗り移ってきたのだ と、数年後、ジムは友人達に話した。 |
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1948年2月 | 父スティーブはまた航海に出た。残されたモリスン一家はカリホルニアのロス・アルトスに移り住む。 ジムが学校に通い始めたのも、弟のアンディーが生まれたのも、この町である。 |
ジム7歳の時に父が再びワシントンDCでの任務となり、ワシントンへ。 |
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一年後父が朝鮮に転属。一家はクレアモントへ。 |
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1955年 | 再びアルバカーキへ転居。 |
1957年9月 | 北カリホルニアのアラメダ郡へ転居。 |
1958年12月 | ジムは家族に先駆けて、ヴァージニア州のアレクサンドリアの両親の友人の家に世話になる。 |
1964年1月15日 | 親の反対を押し切り、セント・ピーターズバーグ・ジュニア・カレッジからUCLAの映画科へ編入。 |
友人デニス・ジェイコブと連む。自分達を『ザ・ドアーズ』と呼んだ。 ウィリアム・ブレイクの『知覚の扉が開かれたなら、すべてはありのままに、無限に人類の姿を現すだろう』という一節から、『ザ・ドアーズ』という名を思いついた。 オルダス・ハクスリーの『知覚の扉』という本のタイトルもブレイクの言葉から取られている。 ウイリアム・ブレイク=1757〜1827年 イギリスの詩人、画家。代表作『無垢の歌』『天国と地獄の結婚』等。 オルダス・ハクスリー=イギリスの小説家。メスカリン実験を自ら進んで行ったことでも有名。 |
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ジムにUCLAの顔見知りのレイ・マンザレクが声を掛ける。 レイのバンドはある高校のダンス・パーティーで、ソニーとシェールという、60年代に活躍したデュオ・グループのバックを努める事になった。 ちょうどメンバーが一人抜けたところであったのだが、学校側に6人から5人に変更になったことを伝えると、契約通りの6人でないとギャラを支払わないと言われた。 そこで、立っているだけでいいからと、ジムに声を掛けたのである。 |
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1965年7月 | カリフォルニア州ロサンゼルスにあるヴェニス・ビーチで、ジム・モリスンはレイ・マンザレクと再会したことからドアーズの歴史は始まった。 UCLAを卒業後、ニューヨークへ行く予定を延期し、ヴェニス・ビーチ近くの廃ビルの屋上で綿々と詩(詞)を書き綴っていたモリスンは、たまたまビーチで再会した UCLA 時代の友人マンザレクに、後に『Moonlight Drive』として発表されることになる詞をアカペラで歌って聴かせた。 その詞の鮮烈なイメージに感銘を受けたマンザレクは、モリスンをヴォーカルに据えた新たなバンドの結成を決意する。 マンザレクはすでに、『リック&レイヴンズ』というバンドでピアノ兼ヴォーカルを担当しており、(ギターのリック、ハーモニカのジムはレイの兄弟)地元のクラブで細々と活動を続けていた。 そこに、音楽に関しては全くの素人であるモリスンが参加。 やがて、マンザレクがメディテーション・センターで知りあった、ドラマーのジョン・デンズモアが加入し、先に述べたウィリアム・ブレイクの『忘れがたき幻想』の一節から引用した名前、『ザ・ドアーズ』を名乗る。 そして、このメンバーと謎のベーシスト(今だに名前すら不明)で、同年9月にデモ・アセテート・レコードの製作をした。 (この時のデモテイクは『Box Set』に収録されている) 。 |
その年の暮れ、デモ・レコードを手に、あちこちのレコード会社に売り込みに行くが、こどごとく失敗。 唯一、好意的な反応を示してくれた『コロンビア』も、契約はしたものの、それ以降の進展はなく、契約破棄のかわりにとヴォックスのオルガンを無料で提供してもらったに過ぎなかった。 (それまでマンザレクはピアノを弾いていたが、これを機会にオルガンに転向する) そんな折りに、リックとジムのマンザレク兄弟がバンドを辞めることになってしまう。 その代わりにギタリストとして加入したのが、デンズモアの高校時代の友人、ロビー・クリーガーだった。 ここに最強のラインナップが勢揃いしたドアーズは、栄光と、そして苦悩の歴史を歩み始めることになる。 |
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1966年1月 | サンセット・ストリップの『ロンドン・フォッグ』なるバーに、ハウスバンドとして雇われる。 その少ない客の中には、モリスンの永遠の「コズミック・メイト」となるパメラ・スーザン・カーソンがいた。 |
5月 | フォッグを言いがかりにも似た理由でクビになってしまう。 だが幸運にもすぐに『ウイスキー・ア・ゴ・ーゴー』に前座のバンドとして雇われる。 『フォッグ』とは比べ物にならないほどメジャーなクラブであったウイスキーで、ドアーズは更に過激さと狂気と知的さを増してゆく。 そんなウイスキーでのギグが評判を呼び、L.A. のアンダーグランドシーンでは名の知れた存在へと成長していった。 |
同年の夏、レコード会社『エレクトラ』の社長であるジャック・ホルツマンがウイスキーを訪れて、ドアーズにレコード・デビューのオファーを持ちかける。 コロンビアの一件以来、この手の話には慎重になっていたドアーズだが、結局このオファーを受け入れた。 だが、その直後のウイスキーのステージ上でモリスンが『The End』の「オイディプス」部分( Father, I Want to Kill You … Mother, I want to … の後、さらにFuckを連呼したらしい)を歌ってしまったために、オーナーの逆鱗に触れ、ウイスキーを解雇されてしまう。 |
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9月から10月にかけてドアーズはデビュー・アルバムのレコーディングに入る。 この時も問題児、モリスンは消火器でスタジオ内を泡だらけにするなど、相変わらずの悪辣ぶりだったが、レコーディングは無事終了。 そして翌年の1967年1月、 シングル『Break on Through』と、アルバム『The Doors』でデビューを飾ることに決定する。 |
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1967年4月 | セカンド・シングルとして『Light My Fire』をリリースする。 |
7月 | あっと言う間に全米No.1を獲得する。 その人気を象徴するかのように、人気TV番組『エド・サリバン・ショー』に出演。 「『Light My Fire』の歌詞、『Higher(ハイになる)』を歌わないでくれ」と事前に通告されていたにも関わらず、平然と歌ってしまう。 そのふてぶてしさと整ったルックスで、ドアーズとモリスンはアメリカ中で、やがて世界中でも絶大な人気を獲得した。 |
11月 | セカンド・アルバム『Strange Days』発表。 その直後の12月、コネチカット州ニュー・ヘイヴンのコンサートでモリスンが警官を挑発し、侮辱したとしてステージ上で逮捕される。 翌日すぐ釈放されて事無きを得たが、この事件以来、コンサートに来る客の質が低下しはじめる。 客は「自分の好奇心を満足させることができる下世話な見せ物」を期待するようになったのだ。 |
1968年7月 | サード・アルバム『 Waiting for the Sun 』発表。 コンサートの会場が巨大になり、ヨーロッパツアーを成功させるなど人気は頂点に達していたが、それはオーディエンスとの距離を更に遠ざける事に他ならず、ますますモリスンのフラストレーションは溜まってゆく。 また、刹那的な快楽主義者でもあったモリスンは、酒やドラッグ、グルーピーとの享楽に耽るあまり、バンドのメンバーやスタッフや友人など、身近な人間からも疎ましく思われる存在になってゆく。 唯一の理解者であったパメラとも、常に喧嘩が絶えなかった。 |
1969年3月 | マイアミにおけるコンサート中に、ステージ上でモリスンが陰部を露出したとされ、 FBI に逮捕されるという事件(マイアミ事件)が起こる。 モリスンは前日に観た、ステージ上で半裸になるというパフォーマンスで知られた前衛演劇、『リヴィング・シアター』の『パラダイス・ナウ』に影響され、この行為に及んだらしい。 いずれにしても、マスコミによる「ドアーズ排斥運動」の影響で、コンサート活動を3ヵ月半に渡って全く行えない状況に陥ってしまった。 |
7月 | 4枚目のアルバム『The Soft Parade』発表。 この頃から徐々にライヴ活動が再会され始めるが、以前の美少年の面影はなく、二十代半ばとは思えないほど年老い、肥え太ったモリスンがそこにいた…。 |
1970年2月 | ドアーズは5枚目のアルバム『Morrison Hotel』で一応の復活を遂げる。 モリソンも、創作のエネルギーを詩作や『HWY』というタイトルの映画制作など、音楽活動以外に向けるようになる。 だが、自身の創造力の限界、裁判への恐怖、パメラとの愛憎関係、そして何よりも『Break on Through』思想の挫折…。 この頃にはすっかりアルコールの魅力に取り憑かれてしまっていたため、その依存度は増すばかりであった。 |
7月 | 初めてのライヴアルバム『Absolutely Live』を発表する。 |
1971年2月 | モリスンはニューアルバムの完成を待たずに、 新しい「何か」を模索するために、パメラと共にパリへと移り住む。 |
4月 | 6枚目のアルバム『L.A Woman 』発表。 好評をもってシーンに迎えられる。モリスンはその評判を聞きつけ、次の作品に自信を覗かせた |
7月3日 | 突然モリスンに死が訪れた。 原因は、アルコールとヘロインの過剰摂取によるショック死という説が有力。 また、ヘロインはパメラの所有物だったため、痛切に責任を感じ、自分を責め続けた彼女は、モリスンの死の3年後にほとんど自殺的とも言えるヘロインのオーバードーズで死亡する。 モリスンを失った三人のミュージシャンは、 その後2枚のアルバムをリリースするもヒットには至らなかった。 作品の出来、不出来よりも、ヴォーカルがモリスンで「ない」事が致命的であったため、カリスマ性のあるヴォーカリストを求めてロンドンへ渡る。 その最有力候補はストゥージズのイギー・ポップであった。 しかし実現には至らず、 1973年1月、 ドアーズは正式に解散を表明する。 |
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