BRIAN JOHNES
BIOGRAPHY
1942年2月28日 | ウェールズ人の航空技師の息子としてグロスターシャーのチェルトナムで生まれた。 母親はピアノ教師で幼い頃から音楽に慣れ親しんだ。 |
17歳で学校を放校となるが、この時すでに2人の子供がいた。 |
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1962年4月 | ミック・ジャガーとキース・リチャーズに出会う。 ブライアンのギターに衝撃を受けたミックとキースは、彼をバンドに引き込もうとする。 |
「ローリング・ストーン」1971年8月19日号 キース・リチャーズのインタビューより。 <前略> −R&B状況を一つにまとめたのはアレクシス・コーナーだ。 長いことジャズ・クラブで演奏してきた人で、演奏をやれ るようなところは全部知っていた。 それで僕らは彼の所へ行った。 ミックと僕が訪ねた最初の時だったか、2回目 だったかに、アレクシス・コーナーが立ち上がって、こう言ったんだよ−「今日はギターを弾いてくれるお客がいるん だよ。チェルテナムから来たんだ。チェルテナムからはるばる君達のために演奏しにね。」 その男がやったのは、エルモア・ジェイムスの曲だった。 それがブライアンなんだ。 前屈みになって・・・・・ダダダ、 ダダダ・・・・・あれ、なんだいこりゃ。スティール・バーでスライド奏法をやってるんだ! <中略> 自分の沢山の女子供と一緒にロンドンへ越してこようとしているところだった。 たくさんといったけど、ほんとに何人 いたかわからないぐらいだ。 大した男だったよ。 少なくとも僕は5人の子供は知っている。それぞれ違う女に生ませ たんだ。どの子もブライアンに似てたよ。 <後略> こうして3人は知り合い協同生活を始める。 最初のドラマーはトウニー・チャップマン。 チャーリーはアレクシス・コー ナーのバンドにいた。 ビル・ワイマンをメンバーに紹介したのはトウニー・チャップマンだった。 その後、チャーリー・ワッツも加入して伝説は始まる。 |
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1963年6月 | ローリング・ストーンズ、レコードデビュー |
ブライアンはオリジナル曲を必要とせず、自分達の好きなブルースのカバーだけをプレイしたがった。 しかし、マネージャーのアンドリュー・オールダム(ビートルズの「プリーズ・プリーズ・ミー」の宣伝担当をブライアン・エプスタインの元でしていた)はオリジナル曲の必要性を考え、ミックとキース(グリマー・ツインズ)に作曲をさせる。 オリジナルのヒットが多くなるにつれ、フロントマンの立場がグリマー・ツインズへ移っていく。 ブライアンの彼女のアニタがブライアンの入院中にキースの彼女となり、キースと不仲になる。 ドラッグへの依存が進み、1968年の映画「ワン・プラス・ワン」では一人だけマイクのオフになっているギターを虚ろな目で弾いている姿が見られる。 |
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1969年6月8日 | ブライアン・ジョーンズ、ローリング・ストーンズを脱退。 |
1969年7月3日 | 自宅プールの底に沈んでいるブライアンが発見された。 ガールフレンド、アンナ・ウォーリンが人工呼吸を試み、看護師のジャネット・ローソン、改装工事中の建築業者フランク・サラグッドが救急車を呼んだが、医師が到着した時、ブライアンはすでに死亡していた。 検死官は、アルコールとドラッグの影響で溺死した、と報告した。 |
2000年 | ウォーリンは2000年に、サラグッドがブライアンを殺害したと主張した。 1993年にサラグッドは殺害を認めたと言われるが、確認がなされる前に他界した。 |
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